今日は自らがオオカミでありながら、それを認めようとしないで羊の皮をかぶり続けている大人たちについての解説です。
世の中の大半は羊でいることに好意的
世の中の人間は自ら望んで意識的に羊でいることを好みます。
これは無意識的になのかはわかりませんが、私たちは心のどこかでオオカミであることを否定しています。
オオカミなんて野蛮だし、凶暴だし・・・・。
こうした思いが私たちの無意識の領域には何となく刷り込まれています。あと、オオカミとは怖いものだ!というイメージや、悪いものだ!というイメージもあります。
あの有名な童話赤ずきんちゃんでは、オオカミは赤ずきんちゃんをだましてあわよくば自分の腹に収めてしまおうという形で描かれています。
こうしたオオカミに対する悪いイメージは何となく、私たちが気づかないうちにあまりよくないものとして、無意識下に刷り込まれています。
でも、実際は違います。
彼らは私たちの意識に植え付けられた悪いイメージを持つ動物ではありません。
むしろどちらかというと、もののけ姫に出てくる森の神モロのような神聖なイメージです。
この神聖なイメージが、キリスト教の興隆と共に汚され、悪いものにされてきました。
オオカミの歴史を知れば、彼らがどのような迫害を受け、どのようなありもしないレッテルを張られて殺されてきたのかがわかります。
オオカミというのは、キリスト教のシンボルである敬虔な羊とは全く異なるむしろその性格は真逆な存在です。
羊が敬虔なキリスト教徒を表すのであれば、オオカミはその真逆でいってみれば反キリストを掲げる異端者のシンボルでもあったといえます。
わたしたちは、オオカミであることではなく、羊であることで神の保護を受けているという思いを潜在的に持たされています。
私たちは何も気づいてはいませんが・・・。
私たちは守られたい、保護されたいという内的な欲求を持っています。なので、自分がオオカミであると気づいたとしても、それを知りながら、羊の生活を選びます。そこには保証があるからです。
オオカミであることをわたしたちは肯定できない
私たちは自分がオオカミであるということを、潜在的に肯定することができません。
それはそこに恐れや不安があるからです。
オオカミであると肯定することに潜在的な不安を持ち、それが邪魔して羊でいる選択枠しか取れなくなってしまっているということもあります。
私たちの中にあるオオカミ(大神)としての記憶
わたしたちの記憶にはオオカミとして迫害を受けた記憶があります。
だから、私たちは潜在的にオオカミをいうものを肯定的に受け入れることができません。
オオカミであるということをを私たちが意識的に受け入れるとき、そこには壮絶な苦しみと痛みが伴ういます。
その記憶に自分が苦しめられるのが嫌だから人間は自分の中にオオカミであった頃の記憶を完全に封じ込めています。
私たちは、自分のオオカミ(大神)であったその本質をその苦しみゆえに覆い隠して羊として生きているということになります。
私たちの記憶にオオカミとしての記憶が刻まれているといわれてもピンとこないかもしれませんが、日本には、オオカミ信仰というものがかつてありました。
それは今もわずかではありますが、オオカミを祀ってある場所はいくつかあります。
オオカミとは私たちと共に生きた仲間
オオカミは私たちの先祖であり、そして時を同じくして生きた仲間でした。
何故、オオカミをわたしたちは潜在的に肯定することができないのか?
それはわたしたちが羊に寝返ってオオカミを裏切った記憶を持っているからです。
人間というのは、ずっと心の深い部分でオオカミ(自分の本質)(自分の中にある神なる部分)を裏切り、羊(自分に都合のいい擬態)(偽りの自分)に寝返ったということを心の奥深い無意識的な領域で悔いているということになります。
わたしたちは、自分で自分を裏切ったこと、自分の中に内在するその神(オオカミ)なる部分を裏切ったこと、そのことをずっと心のどこかで悔い、その罪悪感にいつも苦しめられています。
それが、今の私たちの潜在的な不安を作り出している主な原因であるといってもいいのかもしれません。
誰も自分を罪びととはしたくない。だから自分にウソをついて生きています。
羊に寝返って生きたこと、それにいくら後になって悔いたところで今更戻れない。
だから、わたしたちはただひたすら、羊としの生を全うするしかないということになります。
人間というのは、一度自分自身を裏切ったら、もうそこから引き返すことは出来ません。もし、引き返すことが出来るとするのであれば、それはその人によっぽどの覚悟と強さ、これがなければ到底、この自身の中にある罪悪感、これを払拭することなどできないということになります。
なぜ、わたしたちはオオカミ(大神)でありながら、羊に寝返ったのか?
それは自分をオオカミ(大神)であると信じることができなかったからです。
自分をオオカミだと信じるよりも、羊だとそう信じる方が都合がよかった。
当時の考えで行けば、オオカミはひどい迫害を受け、殺される運命にありました。
つまり、オオカミ【大神)として自分の生を全うしようと思えば、そのすべてが焼き殺されたということになります。
私たちは自分を守るために、自分を偽らざるを得なかったということになります。
私たちはオオカミである自分を裏切ったことを悔いている
わたしたちはオオカミであった自分に誇りを持つことができず、その自分をいとも簡単に羊になげうった自分を意識の深い部分ではずっと悔いています。
だから、自分がオオカミであるということを肯定することができない。
これは私たちの先祖からずっと受け継がれてきた思いだといってもいいと思います。
それを今でも私たちはこの身にしっかりと背負っています。その十字架をしっかりと背負っています。
なので、今この時代になってもまだその自分が先祖代々受け継がれてきたその十字架を下すことができずにいます。
むしろ今その十字架はさらにその重さを増し、私たちの背負う苦しみや痛みはもっと強烈なものになってしまっています。
私たちがオオカミであるということは、つまりは、自分自身であるという意味でもあります。
オオカミであることをやめ、羊であることを肯定し生きる。これはつまり、本来の自分ではなく、その本来の自分に背いて、偽りの自分で生きるということを指しています。
羊であるということは、自分の痛みや苦しみから目を背けるという事
今私たちは安全、安心で囲まれた素晴らしき保証制度の世界で飼育されています。
この世界の中では何も心配することなどありません。
海外に目を向ければ少し事情は変わりますが、とりあえず日本にいれば最低限は保証されます。
羊で生きてさえいれば、それなりに生きてはいけます。
羊として毎日主のために働き、そこで得たすべてを自分の生活を保障する主に献上する。
これが大人になるということで、子供たちは幼いころから自己犠牲の精神を良いことだと教え込まれます。
自分のためにあるものは、自分を守り、そして保護してくれるその主に献上する。それが私たちが生きていくうえでの最上の喜びである。
羊はこうした洗脳が全く解けずに、今日も誰かのために、せっせと自分のために伸ばした自分を保護すべきその毛を主に提供します。
そして声高らかにこういいます。
これは大人になる儀式の一環だと・・。
そして何度も何度も自分のために伸ばしたその毛を主にはぎとられ続けることで、自分には価値があるとそう大人の羊はいうようになります。
自分は何度、その自分の毛を、自分で生産したものを主のために献上することができたのか?それで、大人の羊たちは自分の価値を図ろうとするようになります。
こうした世界に今、住んでいるのが私たちです。
こうした世界を変えるためにも、私たちは自分が今どのような状態にあるのか?その自分の囲われている環境も含め、その自分自身の心も又どのような状態にあるのか?をしっかりと知らなければならないと感じています。
コメント