今月の100分で名著はアリストテレスのニコマコス倫理学を色彩心理学を絡めて説明しています。
アリストテレスの言う幸福とは?
アリストテレスの言う幸福とは、自分の中に内在する可能性を十分に発揮してこの私なるものを十全に生きる事だと言います。
自分の中に内在する可能性、つまり潜在的な可能性、それを十全に生きる。
これがあのアリストテレスの説いた幸福の在り方です。
私たちは皆自分の中に多くの潜在的な可能性を持っています。
でも、その多くを私たちは何も発揮する事が出来ずに生きています。
それは何故か?この潜在的な可能性は、意識の力によって曇らされてしまっているからだと私は考えます。
アリストテレスの言う中庸とは?
アリストテレスの言う中庸とは、簡単に言ってしまえば精神のバランスの事を言います。老子の言った言葉の中にこのアリストテレスの言う中庸と全く同じことを言っている表現があります。
余りあるを損じて足らざるを補う 老子
これは、まさにアリストテレスのいう中庸と全く同じことを言っています。
私たちの精神は常に、どちらかの方向にバランスを欠いてしまっている。
真ん中が一番バランスがいい。
でも、そのバランスを保つ事が出来ないから、一方だけがいつも大きく膨れ上がり、もう一方は、その反対に小さくしぼんでしまっています。
私たちはこのバランスの悪さ、これを自分の力で真ん中の一番塩梅のいい所に自分を持っていかなければいけないという事になります。
これが私の色彩精神分析的な観点から考えれば、私たち人間は、自分が元々持っている色(光)のバランスを自分で取り戻さなければいけないという事になります。
私たちの精神(色)はバランスを欠いている
私たちの精神は、何度も言っていますが光そのものであり、12の色で出来ています。
色には、それぞれ互いを補い合う補色というものが存在します。この補色が互いに互いを補い合っています。
私たちの精神は、この色に相当します。
簡単に言えば、私たちは12の潜在的な色、つまり、これは個人が持つ潜在的可能性(特性)を指します。
こうしたものを持ちながら、私たちは、その内のほんの少しの色しか認識する事が出来ず、それを自分の物として生かす事も出来ていないという事になります。
皆、自分の潜在的な可能性(特性)である12の性質を認識する事はおろか、それを時と場合によって使い分けるという事も出来ないそんな状態にあります。
私たちはこの12の色の中の大まかに言えば、二色くらいしか認識出来ていません。
そしてその二色の色も、一方は強く意識出来ながら、そのもう一方はなんとなくおぼろげにしか認識する事が出来ていない状態になります。
これがまさに、精神のバランスを欠いているという事を表しています。
私たちは究極的な事を言えば、12の色の内、1つしか認識する事は出来ず、その色を自分であると、自分の性質、性格であるとそう思って生きています。
そしてその自分を強く意識して生きる事で、その性質が過剰な状態になり、ほとんどの人は皆その1つの色に恐ろしいほどに固着した状態になっています。
つまり、これが何を意味するのか?と言われると、性格、そしてその人の性質、これがあまりにも単調になってしまっているという事です。
その証拠として、あなたとはどういった性格をお持ちの人間ですか?とそう問えば、ほとんどの人が、私はこういった性格、性質を持った人間ですとそう答えます。
本来、私たち人間というのは固定化されたものではないはずです。
自分を何者であるのか?どういった人間であるのか?という事を答える事が出来る時点で私たちは、自分の精神のバランス、自己認識について大きな偏りを持っているという事になります。
私たちの性格は固定化されたものではない
私たちの性格はこれ!と決まったものではありません。
先にも書きましたが、私たちは12の色を持つ、つまり12の特質を持った存在という事になります。
なので一概に私はこういう性格、性質の人間ですとは本来言い切れないのだと思います。
私たちは決して自分を何者であると言い切る事は出来ず、その私たちが知らなければいけない事は、
私たちは何者でもあるという事になるのではないかと思います。
私とは何者でもない、しかし又何ものでもあるというのが、それがある意味、アリストテレスの言う徳という概念になるのではないかと思います。
私たちの性格、性質はこれといって断定できるものではありません。
自分は何者でもある。
これを悟る事こそがまさにアリストテレスの言う真なる幸福というものなのだと思います。
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