羊の皮をかぶったオオカミ

支配と隷属
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あなたはヒツジの皮を被ったオオカミです。

こんなことを言われたらあなたは一体どう思いますか?いえ、私はそんなんじゃありませんと多くの人が反論するのだと思います。

が、今日は私たちの多くが皆、羊の皮をかぶったオオカミであるということをここでお話していきたいと思います。

 わたしたち人間の殆どは羊の皮を被ったオオカミ

わたしたちは、自分がオオカミであるということを忘れ、自分は羊であるとそう思いこまされて生きています。

そして、自分を羊であるとそう決めつけて、自分で自分の人生の可能性を狭めています。

私たち人間にとってはオオカミとして生きるより、自分を偽り、多くのものとたわいのないことで戯れ、皆で一緒くたんになって固まっていることを好みます。

その方が楽に生きられるからです。群れの中にいれば何も怖くない。

何か恐ろしいものがやってきても、群れの中にさえいれば、とりあえずその不安はある程度解消される。

多くのコミュニティの中にいれば、自分が持っている不安や負担はそこに集まる人の数で分散され、自分一人が背負う分の不安や、恐怖、苦しみ、これらが軽減されるということになります。

 自分を羊とし皆で群れれば怖くない

私たち人間は自分で自分の人生に責任を持ちたがらない生き物です。

自分で自分の人生の責任を負い生きること、それを何とかして回避しようと日々躍起になっています。

いつでも、自分がかわいくてその自分の身を守るために私たち人間はどんなことでも平気でします。すべては自分のため。

それほどに私たちは自分という存在がかわいくて仕方がありません。

この見出しにあるように、皆で群れていれば、私たちはそこで何が仮に起こったとしても、そこにいる誰かのせいにすることができます。

皆で群れていさえすれば、自分が何か悪いことをしたとしても、その責任をその群れの誰かに転嫁させることができます。

何も自分で責任を負わなくても、みんなで群れていさえすればいつでも自分は守れるということになります。

私たちが住んでいるのは、そんな素晴らしい世界です。

そして毎日、自分のしたことのつけを自分でとらずに、自分以外の誰かにその自分のしたことのつけを払わせています。

つまりは自分で自分の人生の責任を負う覚悟のない人間ほど、自己を偽る(羊の皮を被る)ということになります。

人間とはそもそも皆、オオカミと同質の気高い精神を持っています。

でも、その気高い精神を表に出して生きるということは、社会という全体から離れ、自分で自分に責任を持った生き方を社会からは要求されるということになります。

私たちはこれを無意識の領域で否定しています。

自分はオオカミのように気高く生きるんだ!とそう言いながら、多くの人は皆このオオカミである気高い自身の中にある精神を羊の毛で覆ってしまっています。

 オオカミのくせに自分はオオカミではないと否定する人たち

世の中には自分がオオカミであるということを心のどこかではうすうす気づきながら、それを肯定せずに否定する人たちが多く存在します。(自分の心に嘘をついて生きている人をここでは指します。)

彼らは自らがオオカミであるということを題材的に口にすることを恐れています。

自分をオオカミであると公言し、肯定し受け入れた途端、自分には何の保証もなくなるからです。

自分の本性を現した途端、あなたはヒツジの群れから追い出されることになります。なんでも与えてくれる夢の国から追い出されることになります。

人間はは皆、自分を、そして自分の人生を保証してくれるものが欲しくてたまらないそんな生き物です。

ここにいれば大丈夫だ!という安心が欲しい。だから、その安心を手放してまで、自らを野生化させようとはしません。

だから、その安心を多くの人間は、一定の囲いの中で得ようとします。

何もかも保証されていて、ここにいさえすれば安全ですよ!といった保証(安心)。それを彼らは欲します。

多くの人間はこの保証さえあれば、それで自分の人生は満足で幸せだとそう思って生きています。

というか、はっきりといってしまえば、それで満足しなければいけないと思って生きているという方が表現としては近いのかもしれません。

 私たちは人間に飼育されているニワトリみたいなもの

私たち人間は、安全を担保にして、その自らの人間性を常に犠牲にしています。

そのことに気付いている人間が残念ながら、今はあまりにも少ないのが現状です。

わたしたちは日々そうやって、安全と引き換えに大切なもの(私自身)を失っています。

毎日与えられる温かいご飯、温かい寝床、生活に必要なだけの最低限のお金、それを与えられることで自分でも気づいていないかもしれませんが人間にとって一番大切なものをわたしたちは犠牲にしています。

私たちはニワトリ小屋で飼育されている存在だといいましたが、これは確かなことで、私たちはただ周囲から与えられる範囲内でしか生きてはいません。

毎日餌を与えられる時間に餌をもらい、そして外に放たれれば、一斉に皆で競うかのように走り出す。

私たちは何もかも管理された世界の中に、そして時間の中に住んでいます。

そして、その世界と時間の中で自分でも知らない内に、自分が最も大切にすべき自分自身を失っているということになります。

この社会が与えるニワトリ小屋は確かに快適で暮らしやすいです。

でも、その中に安住してしまうことがどれだけ、恐ろしいことなのか?もっと多くの人に私は知ってほしいと思っています。

私たちは安心、安全、保障その中に囲われ、人間である私たちにとって一番大切なものを奪われています。私たちが奪われているものは、自己アイデンティーそのものということになります。

 

自分がここにありながら、その自分は知らぬ間に奪われ、私たちは自分で自分が何者であるのか?を今現在ちゃんと把握できている人はほとんどいません。

これはまさに宮崎駿監督の千と千尋の神隠しさながらです。

私たちは、ここに一つの肉体を持つものとして存在はしている。でも、その私たちは自分の名を、本当の名を持っていません。

千が千尋という本当の自分の名を湯ばあばに奪われたように、私たちもここに私という存在がありながら、その本当の名をこの社会によって奪われています。

私たちの本当の名前、それはオオカミです。でも私たちはその本当の名を、そして自らの姿を完全に忘れています。(オオカミ=大神=光=色)。

わたしたちは色であり、そして光であり、個々の存在である私たちは皆、本来神であるということになります。

 なんの責任も取らずに生きてられる夢の国

私たちが今生きているのは、何もせずともすべてが与えらえる夢の国。自分で何かを特に努力することはありません。

お金さえある程度持ってさえいればなんでも叶う夢の国、その国に私たちは生きています。

自らの名を、そして自らの姿を忘れ、自分が何者であるのかもわからずに毎日、そのけつを主にい追い立てられ、自らに気づきオオカミとなったものに追い立てられ、わけもわからず、右へ左へといわれるがままに移動しています。

そして多くの何が混ぜられているかもわからない飼料を大量に与えられ、それを喜びをもって口に運び入れる。

そんなことをしている間に私たちのこの身はブクブクと太る。私たちは羊な訳だから、その身を温かく保護するための毛ももくもくと増えていく。

その自分の毛の温かさに包まれて気持ちよく眠りにつこうとすると、突然そこに主がやってきて、足と、手を暴れないように縛り付け、そして私たちは自分の身を温めるために伸ばしたその毛を自らを育てたその主にすべてはぎとられてしまう。

そして私たちは自分に一体何が起こっているのかが全く分からずに、意気消沈し、そして何も抵抗することができないままに、その自分の体を覆う温かいその毛のすべてを自分を育て上げた主にすべて奪われる。

自分の毛をすべてはぎ取られ、真っ裸にされて羊は思う。一体何が起こったんだ?と。

そしてその次に襲ってくるのは強烈な寒さ。

自分のためにあるべきものが奪われた。この時、初めて羊である私たちは気づく。

でも時もうすでに遅し。

私たちは自らのために伸ばしたその毛をはぎ取られ、そして又再び、狭いあのゲージの中に戻される。

しょんぼりしていると、そこに仲間の羊がやってきてこういう。

お前もやられたか。これは、大人になるための儀式の一つなんだ。これでお前も立派な大人だな。

自らの毛をはぎ取られた私たちはその言葉の意味もろくに理解できないまま、又安全、安心の日常に帰っていく。その心には何とも言えない気持ちを抱えながら。

 大人になるということは、自分を育てる主のために自分の一番大切なものを捧げること

この話でよく分かったと思いますが、私たち人間(羊)はそうやって教育されえてこれまで生きてきたということになります。

なんでもかんでも自分に都合のいい合理化をし、そこにある現実から目を背けて生きてきた。

自分の身を温めるために伸ばした毛をどうして主に奪われなければならないのか?

それは本来自分自身のためにあるもの。それを主が私たちの何の同意もなくはぎ取ることは本来、違法行為になる。

だが、そのことを受け入れらない弱小な大人羊たちが、自分たちに都合のいい言葉を作ってその現実を湾曲した。弱小大人羊は、自らの子供にこう教える。

大人になるとは、自分のものを他人に差し出すことだと。

わたしたちは、これまで弱小大人羊のいうことを真実として受け入れ、生きてきたということになります。

自らを社会の犠牲として差し出す。これこそが、大人になるための儀式であり、大人である事の印であると弱小大人羊は、子にそう言います。

それを信じて生きてきた私たちは、自分の親からの教義をしっかりと守ってこれまで生きてきたはずなのになぜか、その心になんとも言えないもやもやとした感情を抱くようになります。

社会のために自らの身を犠牲にすること、それこそが大人になるということだ!とそう教育され、そういうものだと思って生きてきた。

でも、何かが違う。何が違うのかはわからない。でも、自分の心はどよめく。

この心と自分の今あるその姿の間にギャップがある人ほど、精神に何らかの異常をきたす傾向が強くなります。

 今ある自分を疑う事の大切さ

わたしたちは、これまでの自分のすべてをまずは疑ってみるということがとても大切です。

これはこうで、ああで、そういうものだからではなく、その1つ、1つを根気強く疑っていくということがとても大切です。

日本人は特にそうなのですが、あまりにも素直すぎる。

だから、外部の人間に言われたこと、社会で学んだこと、そのすべてが正しいと思い込んで、いつの間にかわたしたちは疑うということをしなくなってしまいました。

自らを疑うこともないし、これまでの教義を疑うこともない。だから、自分について何か知ろうとすることもない。

言ってみれば、今現代に生きる私たちは何も知らずとも生きていける。自分の事を何もわかっていなくても、それなりに生きていけるということになります。

今現代に生きる私たちは、ただ千と千尋の神隠しに出てくる父親や母親のように目の前にあるものを自らの欲のままにむさぼり食う豚そのものであるといえます。

そんなことをしながらも、私たちは自分の事を美しい存在だとそう称賛しています。

 わたしたちは奪われた毛を取り戻そうとすることはない

主によって奪われた毛、これを私たちは自らの力によって取り戻そうとはしません。

多くの弱小大人羊は、これは大人になるための儀式だ!と子供に告げ、大人になるということは絶えず、その身に生えたその毛を自らを育てる主に献上することだと教えます。

主によって毛をそぎ落とされた子羊が泣くと、弱小大人羊は、これは泣くような悲しいことじゃない。むしろ非常に喜ばしいことだ!とそういいなだめます。

自らの体に生えた毛を、自らを育てる主に献上すること、それは羊として生きる上での一番の喜びであると弱小大人羊はそういい、自分をだまし、そして自らの子のその心も洗脳していく。

これが何世代にも渡って語り継がれて、引き継がれていく羊である私たち人間の素晴らしきストーリーです。

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