memento mori

生き方
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memento mori この言葉の意味を知っていますか?

この言葉の意味は、自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな、(死を想え)という意味を持つラテン語の言葉です。これを現代では主に、死を意識することで今を大切に生きることが出来るという解釈で用いられていることが多いそうです。

今日が最後の日だったら、あなたは今日、何をしますか?

多くの人は今日が最後の日だなんて思わない。むしろ、その今日はこれから先もずっと同じように続いていくとそう思っている。だから、このなんの変化もない毎日が続いていくという事に苦しみを覚えて何とかして、この苦しみから脱したいと、皆、自分の動物性の満足に日々奔走しています。

岡潔の本に、私たち人間の幸福というものは、自らの動物性の満足に他ならないという言葉が書いてありました。ここでいう動物性とは自我の事であるといっても差し支えないと思います。

私たちは皆で毎日、せっっせと自分の動物的欲求を満たすことに必死です。私もその中にいる一人ではありますが、高い山に登って、そうした世界を高いところから俯瞰して眺めてみれば、私も含め、人間というものは、本当に哀れだと感じることがあります。

高い山の上に登って下界を眺めてみれば、その下界では色々なことが目まぐるしく日々動いています。

memento mori こんな言葉を考えて今日一日を生きている人が、この世界にどれだけいるのだろうか?と思ってしまうほどに、皆何か生きることの本質を忘れてしまったかのように毎日ただ動いているだけです。

今日が最後の日だったら?とそう毎日自らに問い、そして、その日できることに全力で向かって行く。明日はもう命がないかもしれない。だから、何としても今日これだけはしておかなければいけない。

そういう腹づもりで何かに必死に取り組んでいる人がどれだけいるんだろう?と考えてしまう。

戦争を知らない私たち

わたしたちは戦争を知らない。今ロシアと、ウクライナが戦争はしている。でも、日本人の私たちがその戦争を直接体験することはない。だから、どこか他人事。今の若者には、是非とも戦争体験をした人の話や、手記、こういったものを手に取ってもらいたい。今の自分と同じ年頃の人間が戦時下においてどのような思想を持ち、そして生きていたのか?彼らが、どのような極限状態で生きていたのか?

彼らの手記や、戦争体験に触れるとき、今のこの時代をただのほほんと生きていることがなんだか恥ずかしくなる。

現代に生きる私たちは、一日の重さというものを知らない。毎日、毎日やってくるその一日がどれだけの重さなのか?それを感じることが今できなくなっている。一日の価値というものが、昔に比べ、恐ろしいほどに落ちている。

私たちに与えられるこの一日、一日は、本当に貴重なもの、でも、その貴重なものだという事を今この時代に生きる私たちは理解することすらできていない。これほどに恐ろしいことはないと思う。

毎日ただ変わりない日常が永遠に続いていくとそう思うと、その先にはただただ絶望しかない。だから、その自身ではぬぐい切れない絶望感を私たちはなんとかして埋めることに必死になる。毎日私たちに与えられるこの唯一無二の時間を私たちは何もしないで生きているという事になる。

時間を生きていないわたしたち

わたしたちは、自身に与えられる貴重な時間、これを生きていない。ただ無駄に浪費しているだけ。

私たちは、この時間というものに無意識的な領域では並々ならぬ恐怖心を持っていると私は思っている。時間が怖くて、重くて仕方ない。だから、何とかしてこの怖くて、重くて苦しい時間をどうにかして消費してしまいたい。こうした思いが私たちの中にはあると思います。

だから、必死になって街に繰り出して、今すぐにでも自分を飲み込んでしまおうと大きな口を開けて追いかけてくる時間から何とかして逃れようとして、あちこち逃げ回る。この逃げ回る行為、これは人間として生きているという事とはイコールにはならないと思う。

人間として生きるという事は、自分と常に正対することなんだと思う。時間から必死になって逃げ回っているうちは、まだ人間として生きているという事にはならないと思う。

時間という魔物

時間は重くて、怖くて、苦しいもの。だからあれこれして、私たちはなんとかその時間をやり過ごす。時間を意識しなくて済むように、今社会では様々なサービスが提供されている。どれも、よくよく見てみれば、これらは皆、この苦しくて、どうにもならない時間を楽しくていられない魔法の時間に変えてくれる。

この魔法の時間に変えてくれる社会が提供するサービスの中に多くの人は続々と飛び込んでいく。そしてその中で自分は自分を食らおうとする時間という魔物から逃れたのだと、自由になったのだとそう思って生きている。でも、本当は自由になんかなっていない。私たちは時間を感じないように麻痺してしまっただけ。

社会は時間を意識することのないサービスをたくさん提供しています。このサービスの裏にある意図は一体どんなものでしょうか?考えたことはありますか?

私たちは、時間を生きるという事を奪われているという事になります。時間とはとても貴重なもの。そしてその時間を自らの成長に当てなければいけない。でも、その機会を私たちは今、この現代においてことごとく奪われている。その事を皆よくわかっていない。

これは本当に恐ろしいことです。

生きていると思わされているだけで、実際何も人間としては生きてはいない。だから、死ぬ間際になって私たち自身が個人的に残せたものなどほとんどない。創造的で生産的に生きていない。だから何も残せるものがない。残せたと唯一自負することが出来るものがあるとすれば、自分の家と家族だけ。

世の中で何かを成し遂げていくような人たちは、この時間の重み、そして苦しみをよく知っているのだと思います。時間、それは苦しいもの。でも、その時間と正対し、そしてその時間を生きようとする。時間に背を向けて、社会が提供する様々なサービスの中に身をうずめてしまう事ではなく、彼らは、自分の時間を生きようとする。だから、偉大な事を成し遂げられたのだと思います。

memento mori (死を想え)

死を想う、という事は同時に時間に対してもっと敏感になる事だとも思います。時間は永遠には続かない。いつかこの時間も終わる。それはいつかわからない。そうした恐怖心をいつもその心に抱え、そして今日何をするべきかを私たちはもっと真剣に考え、一日、一日をもっと真剣に生きていくことが大切だと日々感じている今日この頃です。

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