わたしとは一体何なのか?

生き方
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私とはなにか?

私とは何か?このことについて普通に生きていればあまり深く考えることはないかもしれませんが、何か自分の人生でうまくいかないことがあったり、不遇な時を過ごしたりすると、わたしたちは、この自分とはなにか?私とは何か?という哲学的な問題を自身に抱き持つ様になります。

人間とは面白いもので、私とは何ですか?と問われたとき、その私を、私たちは明確に示すことは出来ません。多くの人はきっと自分がいま着ているその服を引っ張って、もしくは自分の手の甲の皮をグイっと引っ張り上げて、これが私ですとそう示すと思います。

ここで面白いのは、皆、今あるこの自分を自分であると何も疑っていないということです。ここにある自分がすべてで、その自分に何か疑いをかけるなど決してありません。皆、今ここにある自分を自分であると何も疑っていません。

私が不思議に思うのは、どうして今ここにある自分が私であるとそう言い切れるのか?ということです。ここにある自分を私であると証明することはどうしてできるのか?と。こんなことを言うと、多くの人は皆、私のことを面倒臭い人間だといってそうはねつけてしまいますが、ここでの問題は、なぜ、皆自分が何であるのか?私とは何なのか?を知ろうとしないのか?ということです。

皆、私というものに安泰している

皆、自分というものを持っているとそう思って生きていると思いますが、その自分とは本当の自分であると思いますか?本当の自分であるならば、なぜ、その本当の自分がこんなにも苦しく、生きづらいのか?それを皆さんはどう説明しますか?

苦しみというのは、今あるこの自分が本当の自分ではないから起こるものだと私は考えています。もし、私たちが本当の自分で生きることができているなら、自分の本性というものとぴたりと合致し生きることができていれば、私たちはもっと創造的で生産的で、そこには何の痛みもそして苦しみもないはずです。

今ある私は本当の私なのか?それとも誰かが作り出した私なのか?

こんなにも苦しくて辛い。それはどうしてなのか?それは自分の本性とずれているからです。そのずれているもの、それを私たちは自分であるとそう認識しています。つまり、簡単なことを言えば、私でないものを私であるとそう認識し、その姿でこの社会を生きようとしているから、そこに苦しみが生まれるということになります。

私たちがこの日常生活で認識している私というものは、実はその私なるものをどこまでも自分の中で否定していくと、実はそのこれまで私としていたそのすべてが本当の私ではなく、誰かに、そして社会によって、これまでの経験、体験によって形づくられたものだということに気づくようになります。こうなったときに初めて私たちは、今ある自分とはでは一体何であるのか?といった問いを自身の中に持つことができるようになります。

自分(私)に疑問を持つことから始めよう

私たちは今あるこの自分を何も疑うことはありません。それはこれが私であるとそう信じているからです。でも、その私という存在をどこまでも疑い、批判をくりかえしていくと、そこには先にも言ったように、まったく自分はいないということに私たちは気づくことができるようになります。

仏教的なことを言えば、そこにある私、それさえも幻想であり、自分というものをとことん究極的なところまで疑っていけば、その私さえも、自分自身が作り出した幻想であるということに気付けるようになります。

多くの人は私って何だろう?私っていったい何者なんだろう?とそう言った疑問を持っていると思いますが、その皆が問題にしている私こそが、幻想、つまり自分が作り出した幻想ということになります。そもそも、私なるものはない。でも、私たちはそのないものをあると自分でそう認識しているということになります。つまりないものをあるとそう誤認識しているだけということになります。

私たちはそもそもないものをあると認識し、そして、あるものをないものとして認識しているということになります。

あるものとは何か?

私たち人間はないものを自ら作り出し、それをあたかも現実であるかのように扱っています。なぜ、そのようなことをするのか?それはあるものを認識することができないからです。あるもの、これは私の考えで行くと、色(光)です。これを私たちは認識することができない。だから、わざわざこのあるものを自分で作り出さなければいけないということになるかと思います。

何故、私たちはあるものを認識することができないのか?

何故、あるものを私たちが認識することができないのか?その答えは、完全に忘れてしまってるからということになります。自分で作り出した幻想、それがあまりにも厚くなりすぎて、私たちは、その幻想の一番下にある一番純粋な色(光)これを認識、体験することができなくなっているということになります。

私とは、わかるものではなく、私とは体験するもの。

それがなかなかわからず人間とは不思議なもので、私というものをとにかく作りたがります。私というものが欲しくてたまらない。だから、その私を必死で作り上げようとします。

でも、この行為こそが間違いのもとだということになります。私とは作るものではなく、本来は感じるものであった。私とは形づくり、所有するものではなく、私とはただそこにあって体験するものであった。でも、人間はそれを忘れ今や、私とは体験するものではなく、所有するものへと変化してしまいました。

私とは所有するものではなく、体験するもの、感じるもの

私たち人間は、産業革命以降、この私というものを感じることを出来なくされてしまっています。私とは感じ、そして体験するものではなく、自ら創造し、作り出すものだということにその意義が大きく変更されていきました。

これにより、私たちは自分を作るということに、奔走するようになっていきました。私というもの、それを自ら創造し、作り出せば作り出すほどに、私たちは自分の本性、色(光)これを体験、感じることから遠ざかってしまうということになります。

私とは自らが作り出したものではなく、そこにあるもの

皆、私とは自らが創造し、作り出したもの、それを私であるとそう定義していますが、その私とははっきりと言ってしまえば、それは本当の私といえるものではありません。

その私とは、何者でもありません。その私とは、結局自分の恐怖と不安、これが作り出した一つの総体にすぎません。

この世に生まれ出てきてから今の今まで自分が体験、経験してきた中で抱いた不安や恐怖、これらが今ある私という現象を作り出しているにすぎません。

これがわかれば、わたしたちは今あるこの自分が自分のこれまでの恐怖や不安が作り出した総体であるということを認識することができるようになります。こうなって初めて、完全に自己同一化していた自分から、その自分を切り離し、その自分を客観視することができるようになるいうことになります。

これまでの人生で得た不安や恐怖、これらが作り出した総体が自分、今ある私であるとそう認識することができて初めて、私たちはそのこれまで必死になって作り出してきた自分が本当の自分ではないことを知り、その私を捨て去ることができるようになります。この私を所有するということに何の意味もないということを悟るようになります。これを悟ることできて初めて、私たちはただある、だだ体験するだけというその次のステージに登ることができるということになります。

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