自分を知る唯一の方法(色彩と精神分析)

色による自己実現 
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自分の事知っていますか?自分がどういった人間で、どういった時にどのような考えを持ち、そしてどのような行動を起こすのか?ある物に出会ったり、触れたりしたとき、自分はいつもそのものに対して、どのような反応を起こすのか?こういった自分についての詳細なデータ取りが皆さんは出来ていますか?

多くの人は自分が一体どういった人間であるかのデータ取りがでいていない

どうして自分についてのデータ取りができていないのか?皆さんはわかりますか?

私たちは皆、自分の事よりも他人の事に興味があるからです。それにもう一つ言えることがあるのなら、自分が100パーセントに近い人間であるとそう思って何も自分を疑うことがないからです。

私は自分の事を100パーセントに近い人間だなんて思ったことは一度もないとそういう人も多く見かけます。

でも、そういった人はそう言いながらも自分は100パーセントに近いとそう思って生きています。

絶対違う!とそういう人にいうと怒られてしまいますが、彼らは、自分が100パーセントにより近く、自分には何も欠点などないと思っていいるのが大半です。なので自分を何も省みようとしません。

自分を省みて、自分を100パーセント完璧な状態にもっていこうとはしません。

中にはちゃんと自分の行為を省みて、自分の思考、行動形態のデータ取りをして、次に生かそうと、次のアップグレードに向け、頑張って自分のデータを集めようとする人もいます。

でもこうした人はほとんど現段階では皆無であるといえます。

なぜ、自分のデータ取りをしようとしないのか?

皆、今の自分が嫌だ!とそう言いながらも、結局はそれである意味満足しているということになります。

今の状態で不満はあるでも、とりあえず99パーセントの満足度なら、残りの1パーセントがなくても別にいいやといった感じです。

100パーセントの完璧を求めようとしない。それが、私たち人間です。

100パーセントにならなくても、何パーセントでもとりあえず生きてはいられる。

こうして楽しくそれなりに生きていくことは出来る。ならば、そんなに100パーセントになる必要なんてない。

人生、楽しまなくちゃ損!そんな話もよく聞きます。

どうやら多くの人は自分の人生を100パーセント完璧なものにする事よりも、目先の幸福の方がいいみたいです。

こんなことを言ってしまうと、じゃあ一体どうやって100パーセントの自分を作り出すことができるんだ!どうしたら、その100パーセントにたどりつくことができるんだ!とそういわれますが、それは先にも言ったように、ひたすら、自分のデータ取り、これをしていくほかありません。

自分の事知っていますか?自分がどういった人間で、どういった時にどのような考えを持ち、そしてどのような行動を起こすのか?ある物に出会ったり、触れたりしたとき、自分はいつもそのものに対して、どのような反応を起こすのか?こういった自分についての詳細なデータ取りが皆さんは出来ていますか?

自分の事を何も知らなければ、自分に対する詳細なデータを持っていなければ、まず自分を制御、意識的にコントロールすることもできません。

よく、スーパーなどに買い物に行くと、公共の場であるにも関わらず、大声で人目もはばからずわが子を鬼のような目でにらみつけ、怒号を上げている親を目にします。

こうした人は、まさに自分を何も制御できていないということになります。

自分の事を何もわかっていない、だから、あのような場所で、あのような行為を平然と行うことができる。

子供の服を千切れるほどに引っ張り上げて連れていく親を見ると、本当に自分の事が何もわかっていないんだなと思います。

彼女らは、ある意味そうなると意識的に自分をコントロールすることができていません。そういう観点から見ると、その形態はほぼ動物と同じです。

その動物も爬虫類。

そうした人たちは、ただ眼の前の物に爬虫類と同じく反射を起こしているだけということになります。

彼女らは反射を起こしているのであって、その自分の目の前にいるわが子に対して反応しているのではないということになります。

人間というのは自らの衝動を自らの意思でコントロールできなければいけない

このスーパーで見かけるわが子に怒号を浴びせる親もそうですが、彼女らは、自分のわが子に公共の場であるにも関わらず、人の目の前でわが子にとんでもない罵声を浴びせます。

でも、この時、その親の意識状態を観察すれば、そこにその親はいません。そこにその親の実体は存在しないということになります。

普通に見れば、その親が怒っているわけだから、その親が怒っているということになるかと思いますが、それを私が見るなら、そこに彼女は存在せず、そのお母さんは、自分ではない何者かに操られて、自分のわが子に罵声を浴びせているという形に見えてきます。

そう考えると、お母さん自体が何か自分の中にあるよからぬ感情に自らが乗っ取られていると考えることができます。

幼い子供に怒号を上げるお母さんが一見すると問題のように見えますが、でも、そのもっと奥にある本質的な部分を見ていくならば、そのお母さんは自らの中にある解消されていない強烈な悲しみや苦しみ、それが自分の子供の行為や、思考、言動によってフラッシュバックし、それがトリガーとなって怒りをただ無意識的に発動させているだけということになります。

その子供に浴びせた罵声は実は別の誰かに本来向けるべきものだったはず

私たちは自分の事を何も知らない。自分という人間のデータ取りを何もしていないとそういいましたが、そのために自分をある意味何もアップグレードできていません。

例えば、幼いころに何かに対して強い怒りの感情や、深い悲しみの体験をしたとします。そうすると、その体験や、経験はずっとその人の中に残り、その感情がずっとその人の中でその人を苦しめるということになります。

自分の中にある怒りの感情や、悲しみの感情は人間的なアップグレードをしなければ解消されることはありません。

消えることはないということです。

むしろ、自分の中にあるその怒りや苦しみは、自らをその人間の心の中で維持させるために、より多くの怒りや悲しみの感情を欲します。

そう言ったものを無意識的に引き寄せ、それらはそうしたものを食べ自分たちの力を維持しようと働きます。

こうした何もアップグレードされていない怒りの感情を自分の中にずっと持っていると、いつどこでも、またそれがどんな理由であれ、対象がだれであれ、その怒りを喚起させる何かに出会ったり、触れたりすれば、それは一気に爆発し、そして目の前にいる全く関係のない人間をひどいときには、完全に破壊してしまうこともあります。

子供の心というものは、私たち大人が思うよりも繊細で実に壊れやすいものです。

その子供に、親自らが自身をアップグレードさせないことで、深い傷を負わせている。もっと言えば、全く関係のない人間を傷つけているということになります。

そう考えたら、皆さんはどう思いますか?ゾッとしませんか?

この対象は、子供だけではありません。自分の大切なパートナー、家族、友人関係においても私たちは、この自らのデータ取りをおこたれば、必ずその怠りが、どこかで誰かを無駄に傷つけることになります。

このことをよく表しているの映画があるので最後に紹介しておきます。

 この映画が教えてくれること

この映画は、自分の過去から逃げずに自分と向き合え、それがたとえどんなにつらくて悲しい過去であっても、それを自分の中で否定して、その事実から目を背けていたら何も前には進まないということを教えてくれています。

自分が一体どういった人間であるのか?その詳細なデータを取るということが一体どういったことなのかがよくわかると思います。

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