わたしたちはPINKが作った12の道徳世界の中に閉じ込められている。
わたしたちはPINK(偽りの神)によって作られた12の道徳の世界の中に閉じ込められている。
大道廃れて仁義あり 智慧出でて大偽あり
この言葉は道教の老子の説いた言葉です。皆さんは知っていますか?
わたしたちは何も本来教育されるべき存在ではないという事です。
わたしたちの中には自然にもたらされている道徳というものがあります。
でも、この自然によってもたらされた道徳というものが、PINKという偽りの神の誕生と共に忘れ去られてしまいました。
わたしたち人間には、皆で共有していたコモン的な道徳というものがありました。
この道徳の元に人々は1つに結びついていました。
なので、そこには何の競争も、そして比較もなかった。
でもある日、そこに皆が共有している道徳を否定し、今日から私の作った道徳に従ってもらうといったものが現れました。
わたしたちには自然によってもたらされた皆で共有していた道徳というものがあった。
でも、その道徳は完全に否定され、わたしたちが持っていた道徳はそのよそから来たものに取り上げられそして、わたしたちは自分たちが持っていた道徳ではなく、そのよそから来た者の道徳に強引に従わされるようになった。
わたしたちは何故、よそからきたものの作った道徳を受け入れたのか?
わたしたちが何故、元々持っていた道徳を捨て、よそから来た者の道徳を受け入れたのか?
それは、そのよそからきたものの道徳を受け入れなければ生きていけなかったからです。
彼らは自分たちの道徳を受け入れようとせず、元の道徳の元に生きる者たちを否定し、そしてその存在を抹殺しました。
つまり、恐怖によって私たちを支配したという事になります。
わたしたちは生きるために、公共の、つまり皆の為にあった道徳を捨てる選択を取らされたという事になります。
わたしたちがもともと持っていた道徳観とはタオイズムの道(タオ)であり光
老子の説く大道とは、私の扱う光と同義です。
老子のいうようにわたしたちは分解してはならないものを分解してしまいました。
光やタオ(道)これは本来分解してしまっていいものではなかった。でも、わたしたち人間はその分解してはいけないものを分解してしまった。
道徳というのは、そもそも1つであり、それは自然にわたしたちの中にあるものだった。
それは、誰かに教育され身に着けるものではなかった。
老子は、何もいちいちこれをこうしなさい!ああしなさい!と個人を教育せずとも、人の心の中にはちゃんとした道があり、(光)、これと共に生きるなら、それが最善であるとそう説きました。
そもそも何故、そこに皆が共有する道徳というものがあったのに、わざわざ新しい道徳を作ってそれに人間を従わせなければならなかったのか?
これはとても疑問です。
この世界には人間が作り出した12の道徳観がある
この世界には人間が作り出した12の道徳観があります。
そのそれぞれの道徳観の中にわたしたちは閉じ込められているという事になります。
絶対に分解してはならない道(タオ)、光を分解してしまったことで、この世界には12の色が出現しました。
そしてこの12の色を束ねるトップに君臨するのが、PINK(偽りの神)という事になります。
分解してはならないものを分解してしまったことで私たちは争うようになった
わたしたちは12個に分かれた道徳の世界に閉じ込められていると書きましたが、光、道(タオ)これを分解することで、世界には12の道徳観を持つ世界が誕生したといえます。
それぞれの道徳観を持つ世界が横並びに並列している。そしてその上には偽りの神が存在している。
こうした構図になったとき、人間はどうなるのか?それはもちろんその偽りの神に認めてもらうための競争や、争いが起こります。
皆、偽りの神の一番になりたい。だから互いに互いをつぶしあうようになります。
ここで差異的差別のようなものが起こるようになりました。
皆、自分たちの持つ道徳こそが最善であると説き、その自分たちにとって最善だと思うものをほかの道徳を持つ者たちに押し付けるようになりました。
それで、互いに納得しあうことが出来なければ、そこで戦争が起こります。
まさに、今のロシアとウクライナのようなものです。
わたしたちは本来誰とも比較する必要も戦う必要もない
わたしたちは本来誰とも自分を比較する必要もなければ、誰とも戦う必要はありませんでした。
が、分解してはならないものを人間のエゴによって分割してしまったからこそ、わたしたちは他者と自分を比較し、その他者と競ったり、戦ったりしなければならなくなりました。
わたしたちは公共の道徳、つまり自然によってもたらされた可視化できない道徳を、目に見える道徳に書き換えました。
真の道徳というものは、わたしたち人間の心の中に何をせずとも備わっているものです。
それを否定したのが、わたしたち人間です。
自分たちの心の中に元々備わっている道徳観、それが正しいとは言えない。
それが絶対だとは言えない。ならば、わたしたち人間が正しい道徳を作り上げるのだ!そう言って私たち人間は自分たちで、道徳というものを作り上げました。
こうしたことを書いていていると、いつも気づくことがあるのですが、わたしたち人間に力を与えることを許したのは、以上の事から想像するに偽りの神であったのではないかとも考えます。
わたしたち人間が力を持つことを許したのは偽りの神?
そもそも、わたしたちは自身に力を持つ必要などなかった。
そこには老子の説く大道があり(光)、わたしたちはその大道となって生きればそれでよかった。
つまりは、わたしたちは自分たちが光であることを自ら否定したという事にもなります。
光のままにある。タ(道)のあるがままにある。
そうすることで何もかもすべてが上手くいっていた。なのに、それを私たち人間は否定した。
きっと、物事がうまくいっている時ほど、それを破壊しようとする力が強く働いたのだろうと思います。
何もかもが上手くいっている時ほど、そこに何の不自由さも感じない時ほど、わたしたちは退屈になります。
人間にはいつの時も刺激が必要で、その刺激を求めてわたしたちは分解してはならないものを分解してしまったのだと思います。
平穏無事で何の争いも競争もない世界ではわたしたちは退屈できっといられないのだと思います。
退屈であったからこそ、偽りの神の声がわたしたちに響いた
人間というのはとても逆説的なもので、幸福を求めていながら、その幸福を心の奥深くでは意外に求めていなかったりします。
なので、幸せになりたいとずっと言っていた人が、何もかも満たされて幸福になってしまうとその人は途端に堕落の道に進んで行ったりしてしまいます。
この堕落の象徴ともいえるのが、不倫などにあたるのではないでしょうか?
何の刺激もない生活にわたしたちは耐えられない。いつでもちょっとしたスパイスが欲しい。
そのスパイスをわたしたちに嗅がせ、そしてわたしたち人間の行動を喚起させたのが偽りの神なのではないかと思います。
偽りの神は、わたしたち人間が幸福によって退屈になる事を知っていた。
だから、その退屈さに付け込んで、わたしたち人間を自分の方へと引き入れた。
それにより、わたしたちはもともと自身の中にある道(タオ)光を忘れ、気づいたときには偽りの神が作った差異的差別のある12の世界の内のどれかの中に閉じ込められてしまった。
これが今わたしたちが置かれている現状であると考えます。
この世界はマトリックスさながら
以上の事をふまえると、この世界はマトリックスさながらです。
わたしたちは自分の中にもともと備わってる道徳観を捨て、その上に違う道徳観を書き加えられている。
そしてその偽りの神の手引きによって書き替えられた道徳を持つそれぞれの世界の中に生き、そして何も知らずに生きている。
そこにある道徳観に何の疑問も抱かずに・・・。
わたしたちが今従っている道徳観、それは私たち人間によって作為的に作られたものであり、それは私たちの心にそもそも存在していた道徳観とは違います。
今この時代に生きる私たちは、人間によって作為的に作られた道徳観の元に生きるのではなく、生まれた時に自分のその心にもたらされた人類共有の道徳観の元に生きることが今強く求められている気がします。
スターウオーズでいえば、誰の心の中にも自分を導くフォースがあるという事です。
そのフォースとは誰かによって作られたものではなく、人間に自然に備わっている力です。
わたしたちは今こそ、この自身の中にあるフォースの力に目覚めるときです。
苦しみは、わたしたちがそもそもこの心に持っているフォース(光)(道)に沿って生きていないから起こります。
フォースを信じ、それに身をゆだねて生きるとき、そのフォースと自らの足を揃えて歩くとき、そこには分割される以前の全体的な道徳があるという事になります。
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