偽我の成長はいつも真我(real self)の犠牲を伴い、真我は蔑視され、せいぜいみじめな扱いを受けるだけである。私の経験によると偽我が消失するにつれ、ますます真我は関心を持たれるようになり、こうして内的拘束から解放された意欲、与えられた状況の許す限り人生を精一杯生きようとする意欲が、ますます激しく湧き上がってくる。自己のエネルギーを成長発達させたいという願いは、分析を促進させる原動力の一つであると私には思えるのである。
K.ホーナイ 自己分析
偽我の成長はいつも真我の犠牲を伴う
ホーナイのいう偽我とは、私の扱う色彩理論でいくと、PINKにあたります。
逆に真我は、光(12の色)の事を指します。
私たちは12の色(光)を持った存在である訳ですが、この12の色(光)が、偽我であるPINKによっていつも削られ、私たちの真我は(real self)は成長することができません。
偽我であるPINKは、真我である12の色(光)を犠牲にすることで自らの成長を促進させていきます。
言ってみれば、PINK とは私たちの光を蝕む悪の力ということになるかと思います。
そして今まさに私たちが必死になって成長させているもの、それが偽我ということになります。
偽我はいつも真我を食い物に成長していく
偽我とは、偽りの自分であり、その偽りの自分を私たちはこの日常生活でせっせと構築しています。
自分を偽って、本当の自分からはなるべく遠ざかる。そうした生き方を私たちは日々選択して生きています。
真我これを偽我が食うと、その偽我は成長し大きくなります。
これを象徴しているのは、千と千尋の神隠しに登場するカオナシです。
彼は自分を偽れば偽るほどに、大きく巨大化し、自己統制能力を失っていきます。
はじめは自分がわかっていた。でもどんどんと自分というものがわからなくなっていく。
気づいたときには、もうその周りにいる人たちには到底手をつけることなどできません。
彼は本当の自分を包み隠すように、ホーナイのいう偽我を大きくしていきます。
自らの真我を犠牲にしそして、偽我を大きく成長させていきます。
そこには、本当の自分であるということの恐怖や、不安、そして葛藤があったのだと思います。
カオナシのあの変化していくシーンは、まさに現代の私たちそのものを表しているといえます。
真我を食って偽我を大きくしていく。
そうすることで得られるもの。それは一時の快楽だけです。
ほんの一時自分の劣等感、コンプレックスそれが満たされた気になって気持ちがいいだけであり、
その夢のような時間はすぐに冷めてしまいます。
そうなると、その後残るものは何か?といえば、誰も手がつかられないほどに自己を見失った制御不能な自分だけということになります。
今現代のわたしたちもまた真我を食い尽くした偽我のかたまり
今この時代に生きる私たちも又、あのカオナシと状況は全く同じです。
自分の中にあるものをこれでいいんだ!と肯定することが出来ずに、それをなぜか必死になって覆い隠す。
自分が人と違うものを持っていること、それが何か罪ででもあるかのように、その本当の私の持っているもの、私自身それを皆、偽我に食わせることによって、その自分を外部にあるものや人とぴったりと一致させます。
そしてそこに安心感を得ようとする。
これが今この時代に生きる私たちの姿です。
わたしたちは自分にとって都合の悪いものを皆、この偽我によって食わせて失くしていきます。
本来真我(real self)なるものは、自分に都合の悪いものでしかありません。
本当の私、これをそのままに生きること、それは大変強い苦しみを伴います。
自分に素直に、そして正直に生きる。これこそが一番理想的な生き方ではありますが、これがありのままにできないから、私たちはその自分にとって邪魔な真我を偽我によって食わせているということになります。
そしてその偽我を大きく成長させることにより、もう自分でも、他人でもコントロール不能な状態に落ちていってしまいます。
偽我とはわたしたちの醜い部分を覆い隠す最高の道具
偽我は私たちの劣等感、コンプレックスをきれいに包み隠してくれます。
言ってみれば、自分に不要だと思うものは全部消してその自分をきれいに見せてくれる魔法の消しゴムみたいなものです。
この道具を持つことによって、私たちは偽りのきれいさを保っています。
この世界に生きる人の殆どが、この偽りの綺麗さを毎日競い合って生きてます。
自分にとって都合の悪いものほど、自分にとっては大切なもの
自分にとって都合が悪いものは、皆心の奥深くに押し込んで見えなくしてしまいます。
何もかも抑圧して、意識の表面には自分に都合のいいものをちりばめてそしてそれっがあたかも本来の自分であるかのような顔をして生きているのが私たちです。
それを本当の自分であるとそう思って生きている限り、私たちが本当の意味での真我というものにたどり着くことはないでしょう。
それに真なる美しさというものがいかなるものなのか?ということも体感することは出来ないでしょう。
わたしたちが偽我であり続ける限り、そのわたしたちの意識が真我に関心を抱くことはないからです。
偽我(PINK)であるということは、自分の一番純粋で本質的な部分から一番遠ざかっているということになります。
自分の真我、自分自身の本当の姿(12の色、光)であるということを受け入れるということはとても大変です。
多くの人は、自分を光の存在、12の色を持つ存在だとそういいたいのだと思いますが、わたしのこれまでの経験上、(カウンセリング)そのほとんどが、自分が光の存在、12の色を持つ存在だということを意識の深い無意識の部分では否定して生きているように感じます。
羊の話でも書きましたが、自分はオオカミの心を持ちながら、それを自分の中で否定し、そして羊の心に甘んじているということになります。
ホーナイのいう偽我とは、羊とオオカミの話でいけば羊を表し、オオカミとは真我(realself)nの事を指していると考えてもらうと分かりやすいのかもしれません。
醜いものは醜いままでいい
千と千尋の神隠しに出てくるカオナシの話に戻りますが、わたしたちはわたしたちのままでいいのです。
それを自分で否定して、別のものに作り変えることなどありません。
カオナシはあのままでよかった、あれがカオナシだった。でも、彼自身はそんな自分を肯定し、受け入れることが出来なかった。
だから、変化することを強烈に望んでいた。
人を食う事で、自らが変化できることに快感を覚え次から次へと人を口の中に放り込んでいくシーンがありますが、あれは自分を認めてもらうため、多くの人に自分を認知してもらうために必死になっている姿そのものです。
ここに自分はいる。それを誰も見てくれていない。ならば、大きく変化し、そして皆の関心を一気に自分に向ければいい。
案の定カオナシはそうすることで、一時的な心の満足を得ました。でも、自分が望んだ姿を手にしたカオナシはさらなる目的に向かって進んでいきます。
一時は多くの人にちやほやされることで、その心は満足した。でも、それはほんの一瞬であり、彼は自分が一番認めてほしい千尋に必要以上に執着しました。
千尋によってもっと自分を満足させたかったのでしょう。でも、彼女はそれを拒みました。
もっと気持ちよくしてくれ!とせがむカオナシに、千尋はそんなのは本当の幸せ、幸福ではないよと教たということになります。
偽りの自己(偽我)=(PINK)で生きることは苦しみでしかない。
それがわかっているから千尋は、カオナシの口の中に川の神からもらった泥団子を投げ入れました。
それにより、偽我の塊であるカオナシはどんどんと小さく弱々しくなっていきます。
自分が望んだ姿、自分のコンプレックス、劣等感、そのすべてを覆い隠したその姿から、彼は又自分が一番受け入れることが困難な元のありのままの自分の姿に戻っていきます。
そんなありのままの自分をほかの人は嫌いますが、千だけは嫌いません。
彼を受け入れます。
そして彼はゼニーバのところへ行き、自分の居場所を見つけます。
これが何を意味しているのか?といえば、自分の偽我を消滅させることが出来なければ、本当の意味での自分の居場所を見つけることはできないということです。
ホーナイはこの偽我(PINK)の力でコンプレックスだらけの自分を隠そうとすることではなく、その自らが否定し、そして受け入れることのできないコンプレックスこそが、本当は一番美しい、人と違う個性なのだとそう教えてくれています。
わたしはホーナイに出会う前に、こうした話を自分のイマジナリーフレンドによって聞いています。
以下の言葉はその内的存在者(イマジナリーフレンドによって私にもたらされた言葉です。↓↓↓
醜いから隠すのではなく、むしろその醜さこそが自分の唯一なる美しさであり、個性である。
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