羊とはわたしたちの囚われた心の事を意味し、オオカミとはその囚われから自由になった心を意味しています。
わたしたちの心は囚われた羊のまま
わたしたちの心は囚われた羊のままで何も進化していません。
これまでずっと羊でした。というよりかは、これからもきっと羊のままです。
なぜ、これからもわたしたちは羊のままだと言い切れるのか?
わたしたちは、自分が羊であることを求めているからです。
望んでいるからです。羊であることを自らの意思によって選択しているからです。
わたしたち人間というのは、羊であることを愛しています。
オオカミになろうなんてめっそうもない。
羊で十分。むしろ、羊であることに喜びすら覚える。
何故なら、みんなで群れて楽しく生きていくことが出来るから。
私たちはみんな一緒が大好きです。
個性を謳う今この時代になってもまだ、わたしたちはその時代に乗れず、皆で一緒を求めます。
自分一人の力では何もできない。
みんなで一緒になって初めて事をなすことが出来る。みんなの協力は不可欠。
みんなで力を合わせて1つのものを作り出す。これぞ正義。
自分一人の力でなど何かできたとしても、そんなのはたかが知れている。
どんなに大きくて立派なオオカミだとしても、そのオオカミ一匹で何が出来る?
それよりも、多くの羊が協力しあって何か事をなした方が大きな事を成し遂げることが出来るし、その価値も高い。
そう羊たちは言います。
力のない羊がいくら束になろうと、力のある一匹のオオカミにはかなわない
多くの人はこの事になかなか気づきません。
これは自らの意識のアップデートが出来ていない証拠です。
全体でなせるものと、一個人が自らの力で作り出すもの、そのどちらの方が価値があると思いますか?
一個人が死ぬ思いで生み出した芸術と、そこら辺にいる多くの人がくだらない噂話をしながら、作った張りぼてと、あなたはどちらに価値があると思いますか?
羊に甘んじている人間は、どれだけ束になろうと決して一匹のオオカミに勝つことは出来ない
羊とは囚われた心を、そしてオオカミとはその囚われから自由になった心を象徴すると書きましたが、多くの人は、自分の心が未だこの社会に囚われたままです。
小さなゲージの中にぎゅうぎゅうに閉じ込められ、その世界を闊歩し生きています。
よく考えてみてください。その中でいくら闊歩しようと、そこはゲージの中の世界です。
多くの人はそのことにすら気づきません。
自分は素晴らしい世界を生きているんだ!とそう感じて生きているのが大半です。
皆、小さなゲージの中に閉じ込められ、そこで生きている。
つまり、そこで生きるのに必要なものを与えられて生きている。
社会に与えられるものに、満足して生きているように思っている。
私たちがこの社会が作ったゲージの中で生きるとき、それは真の自由とは言えません。
自由もどきの世界に住んでいるのが私たちです。
自由というのは、オオカミのように社会や群れから離れ、自分の力で何事も自分の責任において生きていくことを意味しています。
今、この世界に生きる私たちは自分に都合の悪いことが起こると、皆、自分の周りにいる誰かのせいです。
誰も、自分で自分の人生を引き受けることがない。
ある意味、自由であるということをはき違えています。
自由であるという事、それは自分の責任において生きるということを意味します。
何かに依存することではなく、誰かをいつも頼りとして生きることではなく、オオカミのように、自分の足で立ちそして生きることを意味します。
わたしたちは羊だからこそ一人では立てない。というより、立つ気がない。
誰かがいれば、いつもその人に、そして社会に寄りかかって生きていけばいいわけなので、わたしたちは自分で自分に力をもって生きる必要はありません。
今この世界は、自分に責任を持って生きなくても生きていけてしまいます。
何をするにも、自分の責任においてする必要などない。
一歩外に出てみれば、そこには羊が大量に群れている。
その中に飛び込めば、自分が自分の責任において、その人生を引き受ける必要もない。
どこかの誰かさんに、自分の人生を責任をもって引き受けてもらえばいい。
羊は自分の人生の責任を引き受けてくれる人を常に探している
羊である人たちは、常に自分の人生の責任をどこかの誰かさんのせいにしようと必死です。
何処の誰でもいいから、私の人生の責任を引き受けて!!そう言っていつも目を光らせています。
そしてある日、その自分の人生の責任のそのすべてを引き受けてくれる心の優しい羊を見つけます。
その心優しい羊を口説き倒して、悪智慧の働く羊は自分の人生の責任のそのすべてを引き受けさせます。
羊の中にも様々なタイプの羊がいる
羊は羊でも、その羊にも多くのタイプの羊がいます。それが私の色に当てはめるなら、PINKを除いた12の色ということになります。
この12の中に入らないPINKとは、自分で自分の人生の責任を引き受けようとしない悪智慧を持った羊ということになります。
なので、12の羊とPINKとは相容れない存在ということで、この二つは別のグループになっています。
この悪智慧を持った羊こそが、今この世界を牛耳っているのかもしれません。(笑)
悪智慧を持った羊は、仲間の羊を犠牲に自由を謳歌する
悪智慧を持った羊というのは、この社会にたくさん存在しています。
彼らは自分で自分の人生の責任を引き受けようとしないで、その責任を他者に押し付け、そして自分の人生を謳歌します。
何もかも優しいあの羊のせいにして自分は自分の人生を謳歌します。
彼らは同じ羊でも、仲間を思うことはありません。
悪智慧の働く羊は、心優しい羊を犠牲にし、その上に君臨し、自分の人生を謳歌します。
彼らは羊でありながら、自分の人生そのものを謳歌することを決してあきらめたりはしません。
自分がこの社会に囲われた羊であることを知りながら、だったら、この囲われたゲージの中でうまく生きていけばいい。
他の羊を犠牲にしてその上に自らの幸福を築いて生きていけばそれでいいじゃないか!と考える羊たちです。
彼らは、自ら羊の王国を作り、そこに仲間の心優しい羊たちを飼いならし、その羊たちに自分のために働けといいます。
羊の世界にも階級制度があるというわけです。
これぞまさに、ブルジョア階級とプロレタリア階級です。
みんなが皆、心優しい羊ではない。
羊にも12のタイプがいると書きましたが、今現在この世界のトップに君臨しているのは、この悪智慧を持った羊たちです。
羊の有産階級です。(PINK)
実質今この世界には、真にこの囚われの世界から自由になったオオカミなどいないということになります。
誰も自分で自分の人生の責任を取ろうとしない。皆、自分に甘えている。
これが今私たちがおかれている世界の現状です。
あの気高いオオカミのように、私たちは自分で自分の人生の責任を負うという生き方を目指すべきです。
自分の背中に背負った十字架、罪の意識、これらは自分以外の他者に向けたり、背負わせたりするものではなくて、それは自分で背負い、自分の力で解消していくほかありません。
誰かに渡してしまおう!誰かに背負わせて、自分は楽になろう!誰かを悪者にして自分は救われよう!こんな事を考えて生きてきたのが人間です。
私たちの先祖です。
どんな罪もわたしたちは自分で負わなくてはいけないし、その罪があるのなら、その罪の解消に自分が努めること、これは何よりも大切なことです。
別に神に帰依しろ!キリストを信奉しろ!ということではありません。
私が皆に伝えたいのは、どんなことでも、そのすべてを自分の責任において受け入れ、生きるという覚悟を持て!ということです。
その覚悟なしに、この厳しい人生を生きていくことは不可能です。
わたしたちは自分の人生の責任を誰かのせいにすることで羊に近づく
羊になりたくなかったら、囚われた自分の心を自由に解放したいというのなら、やるべきことはただ1つ。
自分の人生の責任を自分で覚悟をもって引き受けるということです。
何があっても逃げない。これが私なら、それを甘んじて受け入れる。
その覚悟と強さを持ち、あと必要なのは、羊である自分をいつも内省し、そして絶えず、その自らの心をオオカミにするよう努力すること。
それを惜しむことなく、継続して行うことが出来ればいつかあなたは確実にオオカミになれます。
ありとあらゆるしがらみから、本当の意味で自由になり、そのオオカミ(光)として自らの足で立ち生きていくことが出来るようになります。
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