なぜ?をずっと放置し続ける人(ADHDの思考)

ADHDと私
この記事は約7分で読めます。

だれの心にもあるなぜ?という疑問

アヤカ
アヤカ

いつからわたしたちは、なぜ?を問わなくなったんだろう?小さいころは、自分の周りにある世界すべてが何故?の塊だったのに・・・。

人ってだれしも、なぜ?っていう疑問をこの日常生活を生きていく中で少なからず持っています。

ADHDの特質として、一体なぜ?どうして?と思ったことはとことん追求しないと私はいられない性格故、なぜ、そのようなことを言うのか?どうしてそんなことをするのか?それを私は自分で知らずにはいられません。

自分の取る行動、言動、思考、そのすべてを何もかも説明できないとなんだか気持ちが悪い気がします。

何か自分が行動したとき、なぜ、自分は今そんな行動をしたのか?何故、そのような思考に至ったのか?自分にそうした行動をとらせた、思考を持たせたその根源にあるものとは一体何なのか?

私はそれを知りたくてたまりません。でも、ふと振り返って自分の周りにいる人たちを見ると、皆、このなぜ?といった疑問を自ら解消しようとせずに、なぜ?と疑問は抱くくせに、なぜなのかはわからないなと言って、この疑問に思ったことを深くまで掘り下げて考えようとしません。

私は、何をするにも、いつもどこまでも深く考えてしまいます。

そして、その行動や、言動、思考、それらがどこをどう経由して、やってきたのか?そのプロセスを知りたくて仕方がなくなります。

だから、ずっと私の頭の中は稼働し続けています。常になんでだろう?でいっぱいです。

なんでかわからないこと、それをそのままには出来ません。

自分が気になったこと、興味を持ったことはどこまでも、とことん追求していかないといられない。

これがADHDの特質なのかもしれません。

とにかく自分の興味があることは気になって、気になって仕方がない。

どこまでも、追求していかないといられない。頭の中が知りたいで大渋滞。

そのために、一日の時間取りがうまくできません。

知りたいから、ずっとやり続けてしまいます。過集中ってやつです。

以下参照↓

過集中とは?特徴や対策・ADHDとの関係性を解説
「ひとつの作業にのめり込み、気が付いたら朝になっていた」「飲食を忘れて1日中同じ作業をしていた」などの状況にあてはまる場合「過集中」になりやすいのかもしれません。 過集中はADHD(注意欠如・多動性障害)のある方に現れやすい特性と言われています。またASD(自閉スペクトラム症)のある方にも見られます。 高い集中力を発揮...

知りたい、知りたいが自分の限界を超えていく

私の場合、知りたい、知りたいがいつも私の体の限界を超えていきます。

なので、いつも疲れています。

周りの人にはもっと気分転換したり、リラックスしたりすればいいのにとは言われますが、私にとってはそれが苦痛です。

自分の頭の中にある知りたいを一つでも、知ることができた方が、私にとってはいい気分転換になるんです。

だから、どこまでも追求していく。こうなると、いつ日が沈んで夜になったかも知らないくらいです。

どうしてみんな自分の中に湧き上がるなぜ?を追求しようとしないのか?

私はよくいろいろな人に言われます。あなたは暇だから、そうやっていくらでも答えの出ないことを考え続けることができるのよと。

普通の人は、毎日仕事していて忙しい。

だから、あなたみたいにぼーっと何か一つの事を考え続けることは難しい。

そう言われます。

これってまあ遠回しに私の事をさげすんでいる訳で・・・。

でも、こうした人たちに私も一言言わせてもらいたい。

忙しいにかまけて、ただ何もかもしようとしないだけなんじゃないか?と。

私は暇だから考え続けているんではなくて、その自分の中に浮かんできた問い、その答えが欲しいから、ずっと自問自答したり、いろいろ本を読み漁って、その中に答えを見つけ出そうとしたり、時には、自分のインスピレーションによって、自分の中にあるなぜ?が解消されることもあります。

そうやって、私はいつもではないけれど、少なからずほかの人に比べれば、自分の持つなぜ?に真摯に向き合っているつもりです。

そのおかげで、自分が今どうしてイライラしているのか?どうしてこんなにもテンションが落ちてしまっているのか?なぜ、生きることが嫌になってしまうのか?生きるとは何なのか?など、それらにまつわる疑問をそれなりに自分で答えを探して持っているので、一時の感情に任されてしまうことは昔ほどなくなりました。

まだまだ修行中なので、自分の感情のすべてを把握し、それらを的確にコントロールすることは出来ませんが・・・。

この見出しにあるように、多くの人は、自分の中にあるこのなぜ?という疑問に自ら回答を与えようとしません。

なので、その問題はその人の中でどんどん大きくなり、やがてはその自分の中にあるなぜ?というこの回答を与えてもらうことのできなかった感情によって彼らは、自分自身が飲み込まれてしまっています。

でも、不思議なのは、彼らはそのことにすら気いていません。

これは私にとっては全く理解不能なことです。

自分で自分のなぜ?に的確な回答を与えなければ、そのなぜ?はずっと、いや一生、その人の心の中に居座ることになります。

そういった人を見ていると、気持ち悪くないのかな?自分がぐちゃぐちゃで気持ち悪く感じないのかな?なんて思ったりします。

彼らはなんだかんだ言って、回避、回避の人生です。

それで、その最後には、その回避してきた自分の生き方そのものに、自分が食われて死んでしまうんです。

亡くなった人の顔を見ると思います。この人は、自分で自分を食ったんだなと。

自分で自分のその身も心も食い尽くしてしまったんだなと。

そんなことを誰かに言ったとて、変な奴!で終わりなんですが・・・。

ADHDがおかしいのか?それとも健常者がおかしいのか?

いろいろな意味で、私はADHDでよかったと思っています。社会にはなじめませんでしたが、自分をとことん追求する、自分という存在、人間という存在、色という存在、それをとことん追求していくことができるという意味においてはADHDでよかったんじゃないかなと思います。

理解されずに苦しいことは多々ありますが。

ADHDの人というのは、ただ本当の事を知りたいだけです。

きっと、誰よりも本当の事が知りたいんだと思います。

私の場合は、色(色と人間心理の関係)の成り立ちや、仕組み、それらを動かすエネルギーについてなど。

知りたいことが毎日あたまの中をものすごい勢いで駆け巡っています。

なぜ?と思ったらその答えが見つかるまでとことんやる。

時間なんて関係ない。

(自分の体のためにも、本当はそこは自分で制御できないといけないのですが・・。)

でも、なぜ?という疑問をその心に持ちながら、その解答を得る努力をせずに、忙しいという言葉でかたずけてしまえば、さっきも言ったように、その自分の心の奥深くにしまい込んだなぜ?にいつかその自分が食い尽くされてしまうんです。

私は自分で自分の身を滅ぼしたくはない。

だから、とことん追求するんです。

人に何を言われても、心傷つきながら、何とか前進しています。

自分の心の奥深くに押し込んだなぜ?という問い、これは自分でその的確な回答を与えない限り、その人の心の中に居座り続け、その人を支配し続けます。

私はそう言ったものに、自分のたずなを握らせたくはない。

自分の人生の舵は自分でとりたい。だからどこまでも自分のなぜ?を追求しています。

なぜ?何故?なぜ?ってそんなに考えてばかりいたら、頭がどうかならないのか?とも言われますが、私の場合、そのなぜ?を考えないことの方が苦痛です。

毎日、自分の中にあるなぜ?という問いとの戦いです。

普通の人は、いちいちそんなことを考えない。

他に考えることがたくさんあるから。

そうよく言われますが、私はその皆が考えようとしないことをいちいち考えています。

きっとそれがADHDである私に与えられた特質なのだと思うので。

だから考える。

追求する。

答えが出ないことをいくらでも考えているのは馬鹿だとも言われます。

でも、馬鹿でいいです。

私はその馬鹿なことをしないと気持ちが悪いからしているだけです。

皆のように、自分の中のなぜ?をいとも簡単に回避することができる、自分の心の奥深くにしまい込んでしまうことができればいいんですが、きっとそういった意味では恐ろしいくらいに不器用なのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました