ADHDである私の頭の中ではいつもいろいろな考えがぐるぐると回っています。そして、そこには意外な発見もたく さんあります。
今日はその中の一つについてお話します。とても興味深い話になっているのでお楽しみに。
今日の私の頭の中にある考えは、物に記憶が宿るというお話です。
私たちが日常普通に使っているもの、それには記憶が宿るというテーマが昨日の夜から私の頭の中ではぐるぐると回っています。それについて、私の脳内では何人かの者たちが、このテーマについて語り合っています。
ちょっと信じられないかもしれませんが、私の脳内には私以外の自立した意識を持つ存在が何人もいます。
その人たちと私はいつも頭の中で、いや、心の中で?これはどちらかをはっきりさせることは出来ませんが、会話をしています。
そして、昨日の夜議題に上がったのが、物に記憶が宿るというものでした。
最近こんな記事を読みました。
記事を読んでもらえばわかるように、これはいたって最近の記事です。これがかなりの盛況ぶりだったそうで、これと物に記憶が宿るという話の何が一体どうつながるの?と皆さんはそう思っていると思うので、説明していきますね。
昭和レトロに魅了される私たち
令和という時代に生きる私たちが何故、ここまでして昭和レトロに夢中になるのか?それは、そこにある昭和の様々なものに、強い記憶が宿っているからです。昨日の私の脳内仲間の話によれば、物にはたくさんの記憶が宿っているそうです。
つまり、そのものを見れば、ただそれだけで、そのものに息づいている記憶を感じることができるということになるそうです。
この今という時代に生きる私たちはSNSなどで多くの人とつながることは可能になりましたが、でも、そこにある関係とは深い情緒的な関係ではないということになります。
※情緒的とは「人の感情を揺り動かす雰囲気のある」という意味になります。情緒的という言葉は「物事に触れることによっておこる微妙な感情の変化、またはその感情を引き起こす雰囲気」を意味する名詞【情緒】に、形容詞化する接尾語の【的】を加えられた熟語です。
ちょっと難しいかもしれませんが、これを簡単に言ってしまえば、自分の中にある忘れてしまった何か感情的なものをよみがえらせてくれるといった感じだと思ってもらえればいいのかと思います。
物というのは強い記憶を持つと書きましたが、この記憶はいかにして形成されたのか?というと、昔、いや、昭和時代とは、物と自分のとの間に深い情緒的な繋がりがあったということになります。
物はもの、それ以上の価値はないという現代人の思い込み
ものは単なる物ではなくて、私たちの感情と深く結びついていたということになります。
物が記憶を持つということは、そのものが言ってみれば生きているということにもなります。単なる物でしかないものではなく、物は深い記憶を宿した生きたものであるということになります。
私たちは、その生きた記憶を持つものに触れることで、自らの情緒的な繋がりの回復を無意識のうちに行おうとしているということになります。
昔にタイムスリップしたような気持になった、そしたらなんだかほっとした。つまり、今現代に生きる私たちは、どこにも、この情緒な繋がりを持つ心の置き場所というものを持たない気がします。
それを昭和レトロは、私たちに与えてくれているということになります。昭和レトロな商品は昔の記憶を強く持ち、それを手にした私たちの心にその時代の生き方を反映させて見せてくれている。
私たちは懐かしさを求めていると最近よく目にするようになりましたが、このなつかしさとは情緒的な繋がりのことを意味します。
先にも書きましたが、私たちはこの情緒的な繋がりを人間間で完全に失っている。つまり、SNSを駆使して多くの人とつながっていながら、そこにはこの私たち人間が真に求めてやまない情緒的な繋がりというものは一切ないということになります。
誰といても、いつもその誰かを私たちは心の中で警戒しています。こんな時代だからこそ、その他人に対する警戒度はさらに増している気もします。
私たちの心は今完全に疲れ切っています。だからこそ、情緒的な繋がりを思い出させてくれる強い記憶を宿す昭和レトロ商品に私たちははまっているということになります。
きっとそこには、ほっとできる何かがある。そのほっとできる何か、それこそが情緒的な繋がりです。私たち人間にとって何が一番大切なことなのか?それを思い出させてくれる。そのキーとなるのが、昭和レトロなのかもしれません。
と考えていくと、今の若者とは、自分にとって何が一番大切なことなのか?それを昭和レトロを通して見つけようとしているのかもしれません。
物は強い記憶を持ち、そして様々な感情をよみがえらせてくれる。
古い埃をかぶった昔のものを手にするとき、その私たちの脳内には、その時代のいろいろな光景がよみがえってくる。
昔は今ほど物にあふれていた時代ではありませんでした。だから、昔の人は、おもちゃや、鍋一つとっても、その物との関係は長かった。
長くずっと同じものを大切に使い続けた。その長い期間に、昔の人はその物との間に情緒的な繋がりを築いていったということになります。
人間と情緒的関係を結んだものは何であれ、私の一部。それは自らが失った光を回復させてくれる魔術的な力を持つ
ものをとても大切にして、長く愛用していた時代には、その物と人との間には情緒的な繋がりがありました。
そこには、生きた関係性が成立していたといってもいいのかもしれません。でも、それこそが、私たち人間の精神を言ってみれば保たせる役割を持っていたといっても過言ではありません。
時代と共に、こうした関係が薄れ、物と人間の間には無機質的な関係しかなくなりました。ものはものであり、人間は人間である。
その両者にはこれといった何か特別な関係性など何もない。こうした考えが、物との大切な情緒的な関係を断ち切ってしまったということになります。
物はものであり、それ以上の力など何も持たない。
ものはものであり、それは一時のものであり、私たち人間に何ら特別な力など与えやしない。もし何か特別な力を与えるとしたらそれは一時的なものに過ぎない。
物は物。道を歩いていると、簡易的な子供や犬のおもちゃなどが捨てられているのをよく目にすることがあります。
彼らは、冷たい道先に捨てられて、それでどんな気分なのでしょうか?そんな彼らに楽しかった思い出などあるのでしょうか?
今のおもちゃや物は、この現代に生きる私たちと一切情緒的な関係を結んではいない。
だから、この先、10年、20年と進んだときに、私たちは、今私たちが昭和レトロを見て、かわいいとか、なんかほっとする。とか、楽しいイメージを同じように抱くという事は皆無に等しいと思います。
なぜなら、今冷たいアスファルトの上に捨てられたおもちゃはその所有者である人間と何ら情緒的な関係を築いていないからです。
何故、丸いバニラアイスが乗ったクリームソーダになつかしさを覚えるのか?何故、アイスクリームに一つ真っ赤なサクランボを載せるだけで私たちの情緒は揺さぶられるのか?どうして、そうしたもの1つで楽しい気持ちになる事ができるのか?
それは何度も言いますが、そのクリームソーダや、レモンスカッシュ、サクランボの乗ったバニラアイスクリームに楽しかった記憶これが宿っているからです。
それらは笑顔で、楽しく食べている人間の記憶をたくさん持っているということになるそうです。だから、その記憶が、それらを目にしたり、口にしたときにシェアされるということになります。
つまり、私たちはそうした人間と生きた関係を持ったものと触れ合うことで、自分の中に楽しいという感情、幸せという感情これを感じさせたいのだということになるかと思います。
物は必ず、人間と情緒的な関係を結ぶことができます。それはロボットにおいても・・・
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